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蟹工船 (まんがで読破)
蟹工船 (まんがで読破)こっちと間違えて買っちゃったよ。
すげーつまんなかった。ばか。

[ 蟹工船 (まんがで読破) ]
イースト・プレス
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字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ
秋ですね!
秋と云えば読書の秋。アッキーと云えば安倍昭恵。
今日の予想最高気温は30度。真夏日です。バカヤロー!

字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ太田直子をきっぱりと知ったのは『ヒトラー ─最後の12日間─』だった。そのパンフレットに寄せられた文章が痛快だったのだ。
「ニュースになるような過ちを犯した者たちを、待ってましたとばかりにバッシングする『善良な庶民』のふりも、ほどほどにしておいたほうがよかろう。匿名の手紙やメールを送りつけて個人的な憂さを晴らす暇があるなら、黙って読書に耽るべきである。」

字幕屋とはまず日本語の達人でなければならぬ。それは通訳も同じだろうと思う。母国語たる日本語が不自由では話しにならないのだ。私たちは日本語で考え日本語で暮らしているのだから。
足りない日本語を補うのは読書しかないんだよなァ。

いつぞや本書が出版された頃にNHKラジオ第一に出たようだけれども、その放送をうっかり聞き逃したのが今でも悔やまれる。

[ 字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ ]
太田直子/光文社新書

字幕屋通信 「酔眼亭夜話」
蟹工船・党生活者/族譜・李朝残影
小学生の頃から通信簿の“おうちの方へ”欄に「○○くんは落ち着きが足りないようです」と書かれつづけていた私メ。読書も同じ本を読み通すことが出来ません。なので2~3冊を並行して読むことになるわけですが。
ちなみに美代子ちゃんと真由美ちゃんと同時におつき合いすることになるのが普通ですハイ。でも本命は美代子ちゃんだけですから。そこんとこヨロシク。

ー☆ー

蟹工船・党生活者/族譜・李朝残影小林多喜二『蟹工船・党生活者』(新潮文庫)
『蟹工船』がこんなに面白いとは知らなんだ(『党生活者』は未読)。蟹工船をそのままトヨタに当てはめられそう。トヨタじゃなければ郵便局とか。郵便局員なんてじゃんじゃん自殺してるしね!
つーか日本て明治から今日に至るまで一貫して発展途上国なのかしらんと思ってしまうよ終いには。道徳的未熟児であり人間のクズである安倍ちゃんのへなちょこ辞任劇なんて一体どこの政情不安定な内戦国だよと。その陰で大企業(のトップ)だけは肥えてゆくと。


梶山季之『族譜・李朝残影』(岩波現代文庫)
『性欲のある風景』は佳作。『族譜』『李朝残影』は確認作業て感じですかね、ああやっぱりねと。もちろんフィクションなわけですが。
梶山季之を「流行作家」と評価するのは見直した方がよいと思う。wikiの「日韓併合による創氏改名に迫った『李朝残影』など資質の高い作品も残している。」の『李朝残影』は『族譜』の誤りと思う。
戦中と戦後の間(5)
輸入製でしかも不完全とはいえ、アジア太平洋戦争で大敗北を喫した日本は民主主義の国となりました。しかし民主主義にもっとも抵抗したのは旧態然とした政治家たちでありましょう。共産党によって暴露された“自衛隊の国民監視”がその証左です。民衆の力によって権力者を追放した──革命を起こした──ことが過去一度も無いにかかわらず、権力の側は国民を監視せねば落ち着かない。それは権力の側が民主主義、主権在民がなんたるかを理解できず恐怖しているからこそでしょう。

長い歴史の中で民主主義を経験したのはアジア太平洋戦争大敗北後から現在に至る60余年しかないこの国では、行政も国民も権利、自由とは何かを突き詰めて考えてきてはいませんし、当然ながら理解が出来ません。
日本の民主主義はまだよちよち歩き程度に過ぎないからこそ国民の権利、自由について大いに考え、学ぶべきなのですが、そのような訓練を受けず習慣を持たないままに社会へ放り出されます。

戦後の日本は“世界でもっとも成功した社会主義国家”と揶揄されていましたが、長らく権力者が主権者であったことしか経験していない日本では、権力者からの負荷(圧力)がかかった常態こそがもっとも快い日常であるということを、日本人自らが経験的遺伝子的に“獲得した”結果とすら云えそうです。ですから、「『インテリ臭い』理性的批判とか客観分析とかを軽蔑し憎悪する」(539頁)国民が増殖するのは必然であり、安倍というバカ(石原慎太郎風に)が唱える憲法改悪にいささかの不安を感じない国民がいることも、なんの不思議もないでしょう。むしろそれを望んでいる“空気”すら漂っている。

丸山はレッドパージを例に「現秩序に反対するどころか、現秩序を積極的に礼讃する者だけに認められる自由──これは自由の完全な同語反復化(トウトロジー)であり形骸化にほかな」らないと述べていますが(543頁)、日本人は太古の昔からそうして生きて来ました。
現在の“日本で一番エラいのは国民である”ということを行政もそして国民自身も知らないあるいは忘れています。

(この項、飽きもせずつづく)

※本書で強調点がつけられているところは太字に変えた。

[ 戦中と戦後の間 ]
丸山真男/みすず書房
踊りおどろか「憲法音頭」その消えた謎の戦後
05年09月24日にブログに書いてから気になってはいたものの、積極的に調べることはなかった「憲法音頭」。作曲が中山晋平にもかかわらず、中山晋平記念館ホームページにも紹介されていない憲法音頭とはいかなるものだったのか。私も憲法音頭をどこで知ったのかは忘れてしまった。

News23では93年に憲法音頭の特集を「憲法グラフティー『憲法音頭』を探せ」として2回に分けて放送したらしい。観た記憶がない。見過ごしたのだろうか。

ともかく本書に行き着いた。なんとSP盤から再録した憲法音頭のCD付。
非常に興味深い内容だが、まだ半分も読んでいないので、書評はまたの機会に。
【参考】
「憲法音頭」の誕生と消滅
憲法音頭

1.おどりおどろかチョンホイナあの子にこの子
  月もまんまる 笑い顔
  いきな姿や 自慢の手ぶり
  誰に遠慮が いるものか ソレ
  チョンホイナ ハ チョンホイナ
  うれしじゃないかないか
  チョンホイナ

2.古いすげ笠チョンホイナ さらりとすてて
  平和日本の 花の笠
  とんできたきた うぐいすひばり
  鳴けば希望の 虹が出る ソレ
  チョンホイナ ハ チョンホイナ
  うれしじゃないかないか
  チョンホイナ

3.青葉若葉はチョンホイナ 都に村に
  小風そよ風 この胸に
  好いた同志が ささやく若さ
  廣い自由の 晴れた空 ソレ
  チョンホイナ ハ チョンホイナ
  うれしじゃないかないか
  チョンホイナ

4.そんじょそこらにチョンホイナちょとないものは
  春の櫻に 秋の菊
  雪の富士山 海辺の松に
  光りかゞやく新日本 ソレ
  チョンホイナ ハ チョンホイナ
  うれしじゃないかないか
  チョンホイナ

憲法普及會制定
作詞:サトウ・ハチロー
作曲:中山晋平
編曲:小沢直與志
唄:市丸/波岡惣一郎
管弦楽:日本ビクターオーケストラ
合唱:日本合唱團
1947年5月8日録音
コロムビアレコード株式会社
[ 踊りおどろか「憲法音頭」その消えた謎の戦後 ]
和田登/本の泉社
さらに・大人問題
さらに・大人問題人生を得々と語るひとがいます。哲学的命題としての人生ではなく、自分はいかに優れた人生を送ってきたか、について。
「あんなに悪かったおれも、今では結婚をしてマイホームを建てて、立派なオトナになった」という手合い。それを自慢に思っている。自慢に思っているだけなら、どうぞご自由に。

私のようにイイ歳(どんな歳だ?)をしてもまだ浮き草のような生活をしている者は、「立派なオトナ」にとって恰好の獲物です。
「いつまでフラフラしているつもりか。早く結婚して、真面目な職業に就いて、生活力をつけて、親を安心させてやらなきゃ駄目だ」なんてご高説を賜ってしまいます。ハイ大きなお世話さま。

立派なオトナ、という「枠」があるのでしょうね。その枠から少しでもはみ出る者は社会から許されません。個人をみて枠をつくるのではなく、あらかじめ用意された枠に個人を当てはめてゆく。
スーパーに並べられたきゅうりと同じ。彩りよく真っすぐ育ったきゅうりしか売り物にはなりません。曲がっていたり虫が食っているものは規格外。良くて無人販売所で「ひと山いくら」と叩き売られるか、そうでなければ生産者が食べる。悪くすれば、棄てられてしまいます。
そもそも、真っすぐなきゅうりしかつくろうとしません。

およそ伝統だの風習だの制度だのというものは、それに従ってさえいれば余計な心配事が少なくて済む、というもの。そこから確信的にはみ出す者は「自己責任」で生きているにもかかわらず、世間の風は冷てぇなあ。

[ さらに・大人問題 ]
五味太郎/講談社文庫
戦中と戦後の間(4)
大マスコミが政府の堤灯記事を乱発するようになったのは朝鮮による日本人拉致問題が大きく取り上げられるようになってからだと思います。拉致問題について大マスコミは腫れ物にでも触るようにとにかく慎重です。「日本が過去に行った侵略行為が遠因にある」とでも書こうものなら一斉に非難の声があがる。
丸山は米のレッドパージ(マッカーシズム)を例に論述しています。
「正統」と「異端」という考え方が社会にまんえんすれば、別に国家権力による直接的弾圧をしないまでも、つまり、憲法の建て前の上では言論・集会・結社の自由がちやんと認められていても、人びとは「赤」や同調者とみられることの恐怖から自発的に触らぬ神にたたりなしという態度をとるようになり、実質的には権力による強制的同質化と同じ結果が出てまいります。自由主義者はデリケートな問題には極力沈黙を守るようになり、さらに次の段階には、「沈黙の自由」もなくなつて、大声をあげて俺は反共だと怒鳴らないと完全には安全ではない、ということになる。(545~546頁)
(註:本書で強調点がつけられているところは太字に変えた)
「民主主義」と「言論の自由」は対になっているはずですが、権力に対してもっとも辛辣に批評すべきであるべきはずの大マスコミは「自由を守るために自由を制限する」(548頁)という保身に大きく傾いています(広告主への「配慮」もあるのでしょうが)。ただこうした大マスコミの姿勢は柳を幽霊と見て恐れているごときではないでしょうか。少なくとも私には、大マスコミが恐れている実体がよく分からない。なぜか。そこには「日本人の政治意識」が特徴として表れているのかも知れません。
国家が戦争した以上戦争に協力するのが当然だという考え方が、未だに深く我々の道徳観念になつているということである。戦争をするのが正しいかどうかという価値(正・不正)の判断を国家──つまり具体的には政府にあずけていると言える。ヨーロッパ社会のように conscientious objector(自己の良心が許さぬという理由で兵役に服さぬ人)が一般社会の通念になつていない。即ち良心的反対者を社会がみとめていないということである。シナ(ママ)の儒教思想にはまだしも価値が権力から分離して存在している。即ち君主は有徳者でなければならないという所謂徳治主義の考え方で、ここから、暴君は討伐してもかまわぬという易姓革命の思想が出て来る。ところが日本の場合には君、君たらずとも臣、臣たらざる可からずというのが臣下の道であつた。そこには客観性的価値の独立性がなかつた。人間の上下関係を規定するところの規範が、客観的な、したがつて誰でも援用できる価値となつていない。親の言葉が子の道理という俗語もその例である。上位者そのものには道理という規範が適用されないのである。恩恵を垂れるということはあつても、これを下から要求することはできない、というのは仁・徳が権威者と合一しているから権威者の思し召し如何ということのみによつているからである。(343~344頁)
(この項、なんとなく続く。)

[ 戦中と戦後の間 ]
丸山真男/みすず書房
戦中と戦後の間(3)
幸いなことに、安倍晋三は「人間を等質的なマスに解体すると同時に、このマスでつくられた社会組織をセメントのように固め」(539頁)るべく大衆を熱狂させる弁術を持ち合わせていません。しかも己の信念を曲げたり覆い隠したりすることをまったく恥じない厚顔ぶりです。
いえ、信念など初めからありませんから、「残業代が出ないから帰宅する時間が早まり、家族の団らんが増え、少子化問題も解決する」とまで云って導入しようとしたホワイトカラーエグゼンプションを、今度は「現段階で国民の理解が得られているとは思わない。働く人たちの理解がなければうまくいかないのだろうと思う」と平気で云ってのける。これを政治判断と云うことも出来るでしょうが、要は己の権力に恋恋としているだけなのですね。

そのような安倍が果たして国家主義体制をつくれるのかどうは甚だ疑問です。しかしながら、経済大国とは名ばかりでその実借金まみれであり国連常任理事国入りに世界からの賛成を得られない現状日本の行き詰まり感から、まだ半数の国民から支持を受けている内閣ならば安倍の“嗅覚”次第でどのように転んでもおかしくはありません。
鬱積した空気が広く漂っています。安倍政権が私の望まぬ国づくりを加速させるか否か。日本は曲がりなりにも民主主義国家であり、現政権への異議申し立ては認められなければなりませんし、積極的な異議を唱えることによってこそ権力に一定の歯止めをかけることができます。
一体、デモクラシーとは、素人が専門家を批判することの必要と意義を認めることの上に成り立っているものです。アリストテレスが、『政治学』の中で、「家の住み心地がいいかどうかを最終的に決めるのは建築技師ではなくてその家に住む人だ」ということを言っていますが、まさにこれが民主主義の根本の建て前です。同じように料理がうまいかどうかを決めるのも、腕自慢のコックではなくて、それを食べるひとです。どんなに最新の技術的知識をふるって作った料理でも、主人やお客さんがまずいといえば、コックはその批判に従わなければなりません。「そんなはずはない。それはあなた方の嗜好のレヴェルが低いからだ」とか、「文句があるならお前が作ってみろ」というような言い分は通りません。デモクラシーもその通りで、政策を立案したり実施したりするのは政治家や官僚でも、その当否を最終的に決めるのは、政策の影響を蒙る一般国民でなければならぬというのが健全なデモクラシーの精神です。政治のことは政治の専門家に任せておけという主張はこの精神と逆行するものですが、とかく近代社会の分業と専門化に伴つて(ママ)こういう考え方が起こり易く、これがファシズムの精神的培養源になるわけです。(552~553頁)
(註:本書で強調点がつけられているところは太字に変えた)
民主主義におけるジャーナリズムとは「政策の影響を蒙る一般国民でなければならぬというのが健全なデモクラシーの精神」を道案内する役割、すなわち権力の監視こそに存在理由があります。ところが、日本の大マスコミは小泉政権以降、堤灯記事が主流となってきました。
(この項、もうちょっと続く。)

[ 戦中と戦後の間 ]
丸山真男/みすず書房
戦中と戦後の間(2)
安倍晋三は「戦後レジームの脱却」を唱えていますが、私のような心配性には、戦後レジームの脱却すなわち“新しい戦前体制をつくる”ことを意味するのではないかと思えてなりません。
しかし現在の日本において戦前を再び迎えるといった心配は杞憂ではないかとの考え方もあるでしょう。かつて日本人を根絶やしにしようとした米とはまずまず良好な関係にある。ですが安倍内閣の政策や閣僚の言動からは新たなる戦前体制づくりのニオイを感じてしまいます。「新たなる」とは申しても登場人物や舞台背景が違うだけで、どうやら“いつか来た道”となるのではないか。

そうした戦前体制づくりの中でもっとも邪魔になるのは自律した市民でありましょう。そうした市民を排斥するためには、より強権をふるう必要があるでしょうし、それと同時に“そうではない市民”を権力の側に迎合させた大衆をつくらねばなりません。そこに見る理想は国家主義=ファッショが究極の形と思われます。

丸山は本書「ファシズムの現代的状況」の中でファシズムを次のように解説しています。
ファシズムは、ある場合には公然たる暴力により、ある場合には議会立法の形を取り、またある場合には教育・宣伝等心理的手段によるなど一切の政治的手段を駆使して、その社会を反革命と戦争の目的のために全面的に組織化しようとする内在的傾向をもつて(ママ)おります。(537頁)
(註:本書で強調点がつけられているところは太字に変えた。以下同)
丸山はこの後ドイツのナチズムを例にあげてさらに説明します。
反対勢力を弾圧したり、言論を抑圧したりするだけなら、古来無数の政治権力がやつて(ママ)来たことで別に珍しくもないのですが、ファシズム的抑圧の特質はどこにあるかというと、第一に、それがなんら積極的な建設や理想目的の達成のための「止むをえぬ害悪」として行われるのではなく、むしろ国内国外の反対勢力の圧服ということ自体が目的化しており、そこから容易にこうした反革命なり戦争なりの組織が組織自体として絶対化されるというニヒリズムが発酵するという点、第二に、その抑圧の仕方が、単に反対勢力をつぶすだけではなく、およそ市民の自発的活動の拠点やとりでとなるグループ結成を妨げ、こうして社会的紐帯からきり離されて類型化されたバラバラな個人を「マス」に再組織するという行き方を多かれ少なかれ取る点、この二点にとくにその顕著な特色が見られるように思います。(538頁)
いつ強行突破されてもおかしくない「共謀罪」「憲法改定」、すでに国家主義の先鞭をつけた「改定教育基本法」、そして「防衛庁『省』格上げ」等々、安倍政権が押し進める戦後レジームの脱却とは、ウーゴ・チャベスの言葉を借りれば「硫黄の臭い」がプンプンしてきます。
(この項、飽きて来たけどまだ続く。)

[ 戦中と戦後の間 ]
丸山真男/みすず書房
戦中と戦後の間(1)
戦中と戦後の間(1)本書を最初に読んだのは私が22歳の別れの頃だった。今はただ5年の月日が長過ぎた春といえるだけですゥ。
本書は丸山真男が発表した論稿を集めたもので、635頁にもおよぶ。その中からいくつかつまみ読みしてみたいと、もやし君は唐突に思うのだっ‥‥た。

かつお風味の本題。
投票を棄権する者はよく「誰に投票しても一緒」と云います。誰(どの候補)に投票しても日本の政治は変わらないのだと。しかしこれはまったくの逆であり、本当は“だれにも投票しないから一緒”なんですね。
公明党をごらんなさい。投票率はどれだけ下がろうとも公認候補の得票率はむしろ上がっています。その“からくり”は云うまでもないでしょう。

本当に「誰に投票しても一緒」だと考えているのであれば、共産党や社民党に投票するのもよいでしょう。どうせ“誰に投票しても一緒”なのですから。
しかし、そんな勇気はないと。おまけに共産党アレルギーがあると。旧社会党には裏切られたと。うーむ、今なら国民新党が狙い目ですかね。
共産党や社民党が与党になったところで今さら共産社会主義になるわけじゃありませんから、一度くらい多数与党にしてもいいかもよ(この2党の連立はむづかしそう)。「誰に投票しても一緒」を実証する意味でも。

選挙で“より良い候補”を選べることなど少ないのが当たり前で、それでも“よりマシな候補”を選ぶのが普通です。もしも自分の選挙区の候補者が東郷健と赤尾敏と又吉イエスしかいなくても、です。
(この項、たぶん続く。)

[ 戦中と戦後の間 ]
丸山真男/みすず書房
最近読んだ雑誌から
最近読んだ雑誌から1[ FLASH ]
最新号で「写写丸が証拠を握っている!!/安倍総理夫妻は箸を使えない!」との記事がある。
んなことはとっくに知ってるぜ、ふふん。食べ方が汚らしいこともね。

しかし人三化七の昭恵までもが箸を使えないとは知らなんだ。美しい国の美しくない夫婦(顔も)。大丈夫か、日本の伝統と文化は。


最近読んだ雑誌から2[ サイゾー ]
忘年会で披露する一発芸にお悩みの諸兄に朗報。
07年1月号59頁で「エアセックス」が図解されております。

その昔、とある合コンでルー大柴と江頭2:50のモノマネを披露(ルーで登場後、なめらかに江頭へと移行)。シラケ鳥も凍り付くマイナス273度で場を瞬間冷凍させたのは私でした。
世界の子どもたちに今おきていること
世界の子どもたちに今おきていること本屋さんは大好きだけれども、あまり立ち入らないのが絵本コーナー。なので、ハードカバーの新刊棚で葉祥明の名を目にするとは思いもよらなかった。

自由主義経済の「自由」とは一部の者にのみ許されたカッコつきの自由であり、利益の分配はあらかじめ設置されたベルトコンベアーで決められたところへ運ばれてゆくのみ。それを世界的視点からながめれば、マグロの握り寿司を100円で口にできる日本は間違いなく勝ち組に属する。

これを「当たり前」と思うか「不思議」と思うか。「ありがたい」と思うか「恐ろしい」と思うか。
“世界の子どもたちに今おきていること”を具体的な数字で記された本書は、それでもまだ日本は豊かであることを実感させられる。相対的にね、相対的に。

[ 世界の子どもたちに今おきていること ]
葉祥明/きこ書房
唐突に懐かCM
はじけてるネ。野坂。
http://www.youtube.com/watch?v=Z23yXyjGQRQ

トレンディードラマとかバブルとかのニオイを感じる。
http://www.youtube.com/watch?v=9L3ApBLPuVY

19秒、21秒に登場するおねいちゃんは賀来千香子?
http://www.youtube.com/watch?v=OzDnZ6l2zrE

ACの中でも名作のひとつだと思う。
http://www.youtube.com/watch?v=ANXaygAl_ZY

これはコッチでも流れてた。最後で演歌調になるのが子ども心に不思議だったり。
「安芸の宮島ァ~ ひとりィた~び~」も好きだった。
http://www.youtube.com/watch?v=3ZinR3-tFA4
上品な人、下品な人
上品な人、下品な人たとえば本書第2章の中の「虚勢を張って傲慢/威張りたいのは実力がない証拠」では次のように書かれている。
 自分の能力について自信のない人は、何とかして自分を実力以上に見せようとして、いろいろな手段を講じる。最も簡単な方法は、威張ってみせることである。偉そうなことをいったり強そうに振る舞ってみたりする。
 虚勢を張るために無理をするひまがあったら、その時間とエネルギーを、少しでも実力をつける方向へと使ったほうがよい。威張る人は、その土台となる事実や力がなかったり脆弱であったりするので、いつも不安定な状態になっている。威張ったことを正当化するためには威張り続けなくてはならない。常に気を抜くことのできない「自転車操業」をすることになる。
章が進むにつれ内容は過激になる。いや過激というよりもあれやこれやで恐ろしいのだ。第4章に至っては「『なぜかモテない人』には品がない」と露骨である。下品なオジサン読者は瀕死の重体となろう。あるいは憤死してしまうかも。
「あとがき」では過激さ? が少しは抜けて実に当たり前のことを書いているが、それでも「なるほど」と感じてしまうのは、現代日本社会の空気感がそうさせるのかも知れない。ただし本書は、全体的には“下品な作品”ではある。

「あのひとは上品だ」とか「品がない」という感覚は一般的な共通認識としてある程度存在するように思う。それは時と場所を選ばず「社会性」の問題であり「人間性」の問題である。確信犯的下品オジサンは、その生い立ちから現在に至るまでの間に相当な劣等感=コンプレックスを背負わされてしまったのだろう。
「下品」を通り越した者には“憐憫の情”が待っている。


[ 上品な人、下品な人 ]
山崎武也著/PHP新書
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