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司法と社会は尚も敗北する
分からないのが“責任能力があるから死刑”の理屈である。「責任能力の有無が争点」といった裁判も多い。私などは責任能力があるならばむしろ生きて償わせた方がよいではないかと考えるが、主流日本人の感性では「死刑」ということらしい。

荒川沖連続殺傷事件の被告は、「『早期の死刑執行』を繰り返し望み」、「当時の心境を『この世界から消えたかった。つまらない人生をさっさと終らせたかった』と説明」。そして「無差別殺傷に及んだのは『とりあえず複数殺せば死刑になる』ことが理由という」(29日『毎日』朝刊)。

記事を書いた毎日記者は被告と接見したなかで「遺族や被害者を思いやる言葉は一度も出ていない」などと書いているが、早く死刑にしてくれと主張する被告に反省を期待する方がどうかしているだろう。この国では責任能力の有無もさることながら、反省の有無を執拗に求めるのが大好き。反省したところで死刑にされるならば反省するだけ損というものである。

被告のふてぶてしい態度はなるほどケシカランとは云える。しかし死刑志願の殺人者には法も社会も敗北する以外にない。おれは死刑希望でお前らを皆殺しにするゼという社会の落とし子は完全無欠である。訳知り顔の評論家が「心の闇」「人格障害」と解説したところで死刑志願者は減る気配がない。死刑制度が何の歯止めにもなっていないのではないか。

さてどうする。被告は責任能力があるから死刑とするか。してその効果は誰にどのようにもたらされるのだろうか。被害者遺族そして犯罪的無知の善良なる市民の溜飲をほんのちょっと下げるだけではないのか。死刑執行によって被害者遺族に明るい未来が拓けたのか。死刑執行に喜びの声湧く遺族、という報道にはついぞお目にかかったことはない。マスゴミはなぜ取材せぬ。

29日『毎日』朝刊社会面には《妹殺害の兄 懲役12年》の記事もあった。今や殺害人数を問わず殺人犯は死刑に、の時代である。ところが有罪判決を出した東京高裁は殺害と死体損壊さらに完全責任能力まで認めながら懲役12年である。この国は家族の殺害には極めて寛容だ。介護殺人が顕著な例。

死刑制度を存置するならそれもよかろう。しかし誰を殺せば死刑で誰を殺せば死刑ではないのか。遺族が涙すれば死刑で涙してくれる家族がいなければ有期刑か。ここを感情によって線引きする欺瞞はしてもらいたくないものだね。
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談合裁判
裁判員に選ばれたからといって新聞もテレビもネットも遠慮することはないのが日本の裁判員制度。

であれば驚くこともないのだろうが、裁判員に選ばれた者が「午後から始まる公判を前に喫茶店で話し」をするなどは、いくら暑がりの私でも寒気がする。剛と秋子がダベっていたのは「公判前整理手続きとは何ぞや」ではあるが、これが──

「ねえねえ。被告人てさぁ、いかにも悪人! て顔してるわよね」
「うん、そうだね」
「取り調べでは自白したんでしょ。それが裁判になってから無罪を主張するって変じゃない?」
「そうだよな。ホントに無罪だったら自白なんかしないよな」
「私、被告人が犯人で間違いないと思うの。剛さんはどう思う?」
「うん、おれも被告人が真犯人だと思う。状況証拠もあるみたいだし、新聞やテレビでもあれだけ大騒ぎになってたしね」
「そうよね。‥‥どうする?」
「おれは迷わず死刑を選ぶよ。被告人はちっとも反省してないしな」
「やっぱり死刑しかないわよね。でなきゃ、遺族が可哀想だし」

──てなやり取りだって出来るだろう。いやはや公判を目前に裁判員だけで裁判所外で合議できるとは、日本の裁判員制度ってどこまでも果てしなく大らかだなあ。諸外国は知らないが。

裁判員制度によってカップル誕生があるかもだね。共に死刑を宣告した同士、みたいな連帯感も生まれるし。「おれたち、気が合うね」なんつってな。

私が裁判員に選ばれたならば──美人でかわゆくてクールでキュートでセクシーで頭がよくて気が優しくて力持ちで背が高くて黒髪でパイオツとツーケと太ももが充実していて足首がキュッとしていて夜の超絶技巧がすごくて親が死にかかっているなんとかコンツェルンのひとり娘、が同じ裁判員だったら嬉しいなあ。そんなおねいちゃんとホテルでヨロシクしながら談合したいもんである。

それが遺族のエージェントで、「死刑制度をぶっ潰せ」と密かに主張する私を陥れるハニートラップだったとしても、私は仕掛けに喜んでハマるだろう。つーかナニをアレにハメるだろう。ありがとう浜村淳です。
怪しいから死刑
お前が一番怪しい。だからお前が犯人だ。ハイ死刑ね。

いやはや恐ろしい判決が出たものだ。

約2年前には横浜地裁で「『ささいないさかいがきっかけで衝動的に殺意を抱いたような事態』などが想定できる」と有罪にされた判決もあった(参照)。想定である。“事態などが想定できる”から有罪なんである。

状況証拠だけで有罪にされた判決はいくつもあるが、明確な証拠はなくとも裁判所は死刑判決に躊躇しない方針を明確にしたのが今回の和歌山毒物カレー事件であろう。

死刑相当に全員一致した裁判官(那須弘平、田原睦夫、藤田宙靖、堀籠幸男、近藤崇晴)の本音は「遺族、被害者に恨まれるより林真須美に憎まれた方がいい」ということだろう。あれだけ騒がれた事件なのだから今さら“合理的な疑いが残るから無罪”とは云えぬ。

判決では裁判所お得意の「全面的に否認して反省の態度をまったく示しておらず」も出た。反省していないのはケシカランという話し。加えて「遺族や被害者らに対して、慰謝の措置も一切講じていない」と宣う。

被告人は無罪を主張しているのだからおかしな話し。「分かった、反省する。遺族と被害者に慰謝料も払う。でも私は無実です」などと云う被告人がいるものか。昨日は反省ザルの次郎が4代目を襲名したというが、日本人は反省を求めるのが好きだよなあ、それも執拗に。でも反省したところで死刑にされちゃうんだから。

裁判員制度に目を向ければ、マスゴミによる連日の推定有罪報道に、犯罪的無知の善良なる市民が「無罪推定」「疑わしきは被告人の利益に」の原則を貫けるかどうか。残念なことに日本人はそこまで自律できぬ。8番陪審員がいようものなら非国民の譏(そし)りを免れまいて。ああ恐ろしい。

怪しいから死刑日放協がニュースで「最高裁判所は、裁判員の辞退を認めるかどうか判断する際の参考にするため、どんな仕事の人がどんな時期に忙しいか全国で調査した結果をまとめ」たと伝えた(写真をクリック)。こうなると裁判員になれるのはヒマな公務員くらいなものだろうね。これは余談。
自衛官募集ビラ
自衛官募集ビラこうしたビラは「違法」ではないのだねえ、平気で配っているところをみると。訴えたら違法になるのかしら。宣伝文句が秀逸。
キャリア選択におけるきめ手は、「納得」か「妥協」か。
あなたも「納得」を手に入れたくありませんか。

平和を、仕事にする。
陸海空自衛官募集

変化のめまぐるしい現代において、
自衛隊の持つ強みは
(1)団結の核心をなす『信頼』。
(2)トレーニングによって「人材」を
   代替のきかない「人財」へと
   洩らさず育てる『教育訓練システム』。
このふたつが組織に意志と活力を与えます。

時代の変化に翻弄されない
「不動の価値」がそこにある!
最後の2行は文字がでっかくなってた。

時代の変化に翻弄されない
「不動の価値」がそこにある!


「自衛官募集コールセンター」にフリーダイヤルを用意しているのがスゲー。先輩たちからイジメ殺されずに生還できたらおめでとう。

ご結婚50年に寄せて
裕仁が人間宣言(莫迦莫迦しい)して以降の天皇は主権者たる日本国民に食わせてもらってる立場なのだから、嘘でも国民にもっと感謝せねばならぬ。もっともらしく「嬉しく思います」なんてこきゃあがると生活保護を打ち切るぞ。

そういえば3月だったか。雅子とダンナ、娘っ子の3人で奥志賀高原へ「静養」に来たらしい。いつもながらJR駅前や幹線道路は莫迦莫迦しいほどの警備。何ひとつ生産せぬタダ飯喰らいの一家のせいで混雑する道路。あのねえ、静養も警備もタダではないのだよ。

天皇一族は右翼の街宣車で移動すればよいのである。街宣車を襲う者など今の時代いないだろう。それに右翼団体からすれば大変な名誉だろうから喜んで搬送するに相違ない。まさか運賃をよこせとは云うまいよ。それでは白タク行為である。

さて、天皇はこの国の象徴であるという。本当かしら。たとえば「赤」と云えば共産党! と来る。ノンポリならば情熱と答えるかもしれない。それは「赤」が共産党や情熱を充分に象徴しているからである。

天皇は本当にこの国を象徴しているのか。ときおり「主権者」の前に現れてうやうやしくアルカイックスマイルを振りまくだけならばこの国の象徴はペコちゃんでよいということを散々書いてきた。むしろペコちゃんの方がかわゆい。年間70億円もの生活保護費を支給してやる必要もなければY遺伝子だ女系だといった愚かな議論で紛糾することもない。後継者問題など存在せぬのだから。

ペコちゃんといえば正しく不二家の象徴であろう。ペコちゃんと云えば不二家であり、不二家と云えばペコちゃんである。不二家と云えば? ネクター! そう答える者は相当なへそ曲がりだ。

果たして天皇がペコちゃんくらい立派な象徴足り得ているのか。「主権の存する日本国民の総意に基づ」いてなくとも(憲法1条)、象徴としての存在に疑わしさがあるのならば天皇の存在理由はすっぱりとなくなる。

日本の象徴であるならば日本の玄関口成田空港ロビーで「ようこそ日本へ!」とやればよいのだ、カーネルサンダースよろしく。外国人観光客も大喜び間違いなし。オー! ジャパニーズ ショーチョー! これこそ真の公務である。ただし、どぶ川へ放り込まれないよう充分にお気をつけを。天皇の呪いがかかるのはイヤだ。
殺して食べる
或おねいちゃん、同僚と結婚することになった。結納を前に、山間の小さな集落にある彼の実家へ挨拶へ行くことに。前にも簡単な挨拶に伺ったことはあるが、今回は泊まり。垢抜けした美人と評判のおねいちゃんを、彼の両親はとても気に入っている。田舎の人間らしく大層なもてなしで迎えてくれた。

ところがおねいちゃん、以前訪れたときにいたウサギのミミちゃん(仮名)の姿がみえないことに気がついた。肥えてはいたものの、いかにもウサギ然とした愛くるしいミミちゃん。それがすっかり形を変えて食卓へドーンと乗っていたのだ。

それが理由で交際は終了。なんと野蛮で残酷な一家なのか! ということらしい。話しを聞いた私は「何のために飼っていたのかといえば、そりゃ食うためだよ。それは大変なご馳走であり、お客への最高のもてなしだったのだ」と云うが、ペットを食べるなんて信じられない! と来る。いや、だから、田舎の家で飼っている鶏やウサギは愛玩動物ではないのだよ。

今どきの寿司屋ではマグロの解体ショーなるコトをお客に見せるらしい。ならば牛の解体ショーをする焼肉屋があってもよさそうなものだが、そのような店は“なぜか”ない。牛だって血抜きをしておけば「ショー」は出来るだろう。

この国の食糧自給率は40%。ならば60%の国民は飢えて死んでもよさそうなものだが、なぜかそうはならない。それどころかメタボに恐れおののく国民の多いことったら。

今どきは「給食費を払ってるんでござーますから、宅のボクちゃんに『いただきます』を云わせるのはおやめくださいませんコト?」と学校へねじ込むPTAもいるのだとか。いただきますとは“あなたの命を私の命に代えさせていただきます”なのだがなあ。宗教ぽいが、そうなんである。

本ブログで以前「小学校の修学旅行で屠殺場を訪れたらどうかと考えている。『食う』とは何か、そして『命』とは何かを学ぶに最も適した場所が屠殺場である」と書いた(参照)。産地ばかりを気にしても仕様がないぞ。

『毎日』で3回にわたって連載された《肉はどこから:いのちと向き合う》は良い記事だった(魚拓)。主題は「屠殺」に向けられているところがなかなか無い視点である。
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