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愛国者は信用できるか
愛国者は信用できるか「国を愛する」とは極めて形而上的であり愛すべき対象が為政者によっていかようにも恣意的な定義を許す概念的観念論である、ということを私は本ブログで以前にも書いた。又吉イエス総理大臣が誕生したらば「又吉さまぁ」と萌えることこそが愛国であって、それに反対する者は「反日」であり「非国民」であり「売国奴」である。

「愛国」の普遍的な定義はおそらく存在しえないことは上記した通りだが、自民党政権のときも非自民党政権のときも変わらず税金を納めていた(イヤな表現)多数の国民は愛国者であると云はしまいか。税金がいかように使われようとも文句をほとんど云わず、政権・政策に左右されず、常に税金を払い国を支えてきたのだ。
少なくとも、所得税すら払わぬ者よりずっと「愛国者」である。

さて本書。
鈴木は「僕ですら戸惑うほどだ」と云う。なぜか。
それは「最近、急に世の中が変わった。世相というか国民の意識が変わってきた。ソ連が崩壊し、東欧もなくなった。日本だって左翼がいなくなった。その途端、にわか右翼、オタク右翼、新保守がドッと増えた。ネット右翼も大増殖した」(8頁)からなのだと。
最近流行の愛国心とは、小作人根性丸出しの「相対的」愛国心である。おれはアイツより愛国心を持ってるぜェ、といった程度のものである。
誰がなんと云おうとおれ様は愛国心の固まりなのだ! おれ様こそ真の愛国者なのだ! わははザマーミロ! という「絶対的」愛国心ではない。薄っぺらなのである。(そもそも「絶対的愛国心」など存在しない。あるとすればそれは、常に権力者におもねる「日和見主義」であろう。)

鈴木はこうも云う。「国というのは、いろいろのもので成り立っている。自分の家族、学校、会社、町、市、県。そして国家になる。自分の周りのそれらを一つずつ愛していって、その〈総体〉としての国を愛するのなら分かる。しかし、『愛国者』を自任する人は、家族や町、市、県からは孤立し、嫌われ、そのくせ、『俺は愛国者だ』と言っている人が多い。三島(由紀夫)の言うように、この共同体をピョンと飛び出して、国と自分が対等になって、『愛している』と言っている。これは思い上がりだし、錯覚だ」(23頁)と。


[ 愛国者は信用できるか ]
鈴木邦男著/講談社現代新書

お待たせ。『愛国者は信用できるか』が出ました!(今週の主張5月22日)
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