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“哲学すること”をすること
“哲学すること”をすることあらためてつくづく感じることは、日本は最低でも高校で、できれば中学から哲学を必修科目にすべきということである。
単に教科書をさらうだけの思想「史」を学んだところで意味は無いし社会で役立つものではない。職場で「神は死んでいる」などと云い出したら気味悪がられること必至だろう。そうではなく、自分で考える力をやしなうための訓練としての哲学を学校の授業科目に導入することは個々人にとって大いに有用ではあるまいか、ということだ。

哲学のダイナミズムは〈疑問→思索→結論→そこから生じる新たな疑問→思索→結論→更なる疑問→思索→‥‥〉という思索の連鎖にある。その中にあっては答えを“導き出そうとする”ことが重要であり、導き出された答え自体はそれほど重要ではない。そもそも普遍の答えなどないのだから。

“哲学すること”の訓練は早くからおこなうに越したことはない。
複眼的多角的思索力は様々な考え方(思想)に接し、反芻し、分析することによって培われる。そのためには“哲学すること”を学ぶことが実はもっとも手っ取り早い。みずから導き出した答えですら「これでいいのか」と疑うことは大切であり、バカボンのパパ的「これでいいのだ」では、はじめから思索も対話もへったくれもないのである。

おのれの答えに執着することはみずからを檻に閉じ込めていることであり、おのれの“哲学すること”の力を奴隷下に置いている状況である。
“哲学すること”なくしては「ウザイ」「キモイ」「ムカつく」の言葉しか持つことが出来まい。自省も込めて。

どうでもいい気もするけど。
この記事へのコメント
哲学と数学
日本の場合やはり学問じたいやはり根本的にはお江戸式から変わってないのではないでしょうかね。というのも欧米的に派生した哲学と数学は切り離せないのに、日本では江戸時代の漢学や蘭学のノリで今の学問や教育が成り立ってますから、ハイ。デカルトみたいな人間が日本でも出てくれば別なんでしょうが。
chi1969jp | 2006/06/24(土) 22:49:40
答えを求めず、真理を求める
今の教育(特に「進学教育」)に於いて、対極とも言うべき教科ですね。如何に覚え、正しい知識と答えを導き出すかのみを真理としているアンチテーゼとも言うべき進言(新言)ですね(笑)。「真理」を考える事で、短絡且、単言、ボキャ貧からの脱却となり得る事でしょう。
しかーし、「真理」を教えられるキョーインがいるかが問題ですナ(汗)。まあ、キョーインでなくとも、村の長老とも言うべき人生の集大成とも言うべき方が教壇に立つ方が、生半可なキョーインよりも良いでしょう(笑)。
Matty| | 2006/06/24(土) 23:17:57
chi1969jpさん>
思想的な面はできる限り削ぎ落とさないとこの国では学問にならないのでしょうかね。政治家になるためのハウツーとか金持ちになるためのハウツーとか。

Mattyさん>
そもそも哲学なんぞメシの種になりませんからムダなんです(笑
水瓶座| | 2006/06/26(月) 10:00:36
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