スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
戦中と戦後の間(3)
幸いなことに、安倍晋三は「人間を等質的なマスに解体すると同時に、このマスでつくられた社会組織をセメントのように固め」(539頁)るべく大衆を熱狂させる弁術を持ち合わせていません。しかも己の信念を曲げたり覆い隠したりすることをまったく恥じない厚顔ぶりです。
いえ、信念など初めからありませんから、「残業代が出ないから帰宅する時間が早まり、家族の団らんが増え、少子化問題も解決する」とまで云って導入しようとしたホワイトカラーエグゼンプションを、今度は「現段階で国民の理解が得られているとは思わない。働く人たちの理解がなければうまくいかないのだろうと思う」と平気で云ってのける。これを政治判断と云うことも出来るでしょうが、要は己の権力に恋恋としているだけなのですね。

そのような安倍が果たして国家主義体制をつくれるのかどうは甚だ疑問です。しかしながら、経済大国とは名ばかりでその実借金まみれであり国連常任理事国入りに世界からの賛成を得られない現状日本の行き詰まり感から、まだ半数の国民から支持を受けている内閣ならば安倍の“嗅覚”次第でどのように転んでもおかしくはありません。
鬱積した空気が広く漂っています。安倍政権が私の望まぬ国づくりを加速させるか否か。日本は曲がりなりにも民主主義国家であり、現政権への異議申し立ては認められなければなりませんし、積極的な異議を唱えることによってこそ権力に一定の歯止めをかけることができます。
一体、デモクラシーとは、素人が専門家を批判することの必要と意義を認めることの上に成り立っているものです。アリストテレスが、『政治学』の中で、「家の住み心地がいいかどうかを最終的に決めるのは建築技師ではなくてその家に住む人だ」ということを言っていますが、まさにこれが民主主義の根本の建て前です。同じように料理がうまいかどうかを決めるのも、腕自慢のコックではなくて、それを食べるひとです。どんなに最新の技術的知識をふるって作った料理でも、主人やお客さんがまずいといえば、コックはその批判に従わなければなりません。「そんなはずはない。それはあなた方の嗜好のレヴェルが低いからだ」とか、「文句があるならお前が作ってみろ」というような言い分は通りません。デモクラシーもその通りで、政策を立案したり実施したりするのは政治家や官僚でも、その当否を最終的に決めるのは、政策の影響を蒙る一般国民でなければならぬというのが健全なデモクラシーの精神です。政治のことは政治の専門家に任せておけという主張はこの精神と逆行するものですが、とかく近代社会の分業と専門化に伴つて(ママ)こういう考え方が起こり易く、これがファシズムの精神的培養源になるわけです。(552~553頁)
(註:本書で強調点がつけられているところは太字に変えた)
民主主義におけるジャーナリズムとは「政策の影響を蒙る一般国民でなければならぬというのが健全なデモクラシーの精神」を道案内する役割、すなわち権力の監視こそに存在理由があります。ところが、日本の大マスコミは小泉政権以降、堤灯記事が主流となってきました。
(この項、もうちょっと続く。)

[ 戦中と戦後の間 ]
丸山真男/みすず書房
この記事へのコメント
コメントを投稿する





秘密: 管理者にだけコメントを表示させる
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック(本ブログURLを含まないTBは制限されています)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。