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戦中と戦後の間(4)
大マスコミが政府の堤灯記事を乱発するようになったのは朝鮮による日本人拉致問題が大きく取り上げられるようになってからだと思います。拉致問題について大マスコミは腫れ物にでも触るようにとにかく慎重です。「日本が過去に行った侵略行為が遠因にある」とでも書こうものなら一斉に非難の声があがる。
丸山は米のレッドパージ(マッカーシズム)を例に論述しています。
「正統」と「異端」という考え方が社会にまんえんすれば、別に国家権力による直接的弾圧をしないまでも、つまり、憲法の建て前の上では言論・集会・結社の自由がちやんと認められていても、人びとは「赤」や同調者とみられることの恐怖から自発的に触らぬ神にたたりなしという態度をとるようになり、実質的には権力による強制的同質化と同じ結果が出てまいります。自由主義者はデリケートな問題には極力沈黙を守るようになり、さらに次の段階には、「沈黙の自由」もなくなつて、大声をあげて俺は反共だと怒鳴らないと完全には安全ではない、ということになる。(545~546頁)
(註:本書で強調点がつけられているところは太字に変えた)
「民主主義」と「言論の自由」は対になっているはずですが、権力に対してもっとも辛辣に批評すべきであるべきはずの大マスコミは「自由を守るために自由を制限する」(548頁)という保身に大きく傾いています(広告主への「配慮」もあるのでしょうが)。ただこうした大マスコミの姿勢は柳を幽霊と見て恐れているごときではないでしょうか。少なくとも私には、大マスコミが恐れている実体がよく分からない。なぜか。そこには「日本人の政治意識」が特徴として表れているのかも知れません。
国家が戦争した以上戦争に協力するのが当然だという考え方が、未だに深く我々の道徳観念になつているということである。戦争をするのが正しいかどうかという価値(正・不正)の判断を国家──つまり具体的には政府にあずけていると言える。ヨーロッパ社会のように conscientious objector(自己の良心が許さぬという理由で兵役に服さぬ人)が一般社会の通念になつていない。即ち良心的反対者を社会がみとめていないということである。シナ(ママ)の儒教思想にはまだしも価値が権力から分離して存在している。即ち君主は有徳者でなければならないという所謂徳治主義の考え方で、ここから、暴君は討伐してもかまわぬという易姓革命の思想が出て来る。ところが日本の場合には君、君たらずとも臣、臣たらざる可からずというのが臣下の道であつた。そこには客観性的価値の独立性がなかつた。人間の上下関係を規定するところの規範が、客観的な、したがつて誰でも援用できる価値となつていない。親の言葉が子の道理という俗語もその例である。上位者そのものには道理という規範が適用されないのである。恩恵を垂れるということはあつても、これを下から要求することはできない、というのは仁・徳が権威者と合一しているから権威者の思し召し如何ということのみによつているからである。(343~344頁)
(この項、なんとなく続く。)

[ 戦中と戦後の間 ]
丸山真男/みすず書房
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