スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
六マリアの悲劇
 軍事独裁政権治下で“反共”を教理として打ち出し、政治権力と密着し寄生してきた統一教(注=韓国では統一協会のことをこういう)
六マリアの悲劇という「推薦の辞」(卓明煥=タン・ミョンファン)で始まる本書の副題は「真のサタンは文鮮明だ!!」である。
いわゆる告発モノゆえに、統一協会創始者(のひとり)という著者の筆致に憤怒の思いにかられた部分はあるだろう。しかし統一協会のいかがわしさは充分に理解できる。
もはや多くの知るところとなったが、統一協会をひと言で云えば“金と性にまみれた凡庸の新興宗教”に過ぎない。すなわち「カルト教」である。そのような宗教に関係する政治家がいるのだから嗤う。云わずと知れた安倍晋三。

無能な者、気弱な者ほど虚勢を張って自らを大きく見せたがるものだ。見ている側が痛々しくそして哀れにすら感じるほどに。次期自民党総裁=総理大臣の最有力候補と持ち上げられている安倍晋三はまさしくそのような人間だろう。
安倍が統一協会のいかがわしさを仮に知らなかったとしても、合同結婚式に準じた集会へ祝電を送った軽率さは免れまい。しかしその“軽率さ”にこそ安倍の政治家としてのすべてが凝縮されていると云ってもよいだろう。統一協会への祝電も安倍の虚栄心を満たすものであったのだ。安倍が抱える数々の疑惑が事実であるとするならば、それもすべては安倍の虚勢心がまねいたのである。
それでも私は安倍晋三内閣誕生を期待する。理由は以前に書いた通りなので繰り返さないが、本気で安倍を潰すのであれば多少の痛みは我慢せねばなるまい。


[ 六マリアの悲劇 ]
朴正華(パク・チョンファ)著/恒友出版

参考リンク
情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)
一九九九年に生まれて
「人間は神の領域を越えるべきではない」などと信心深いことを云うつもりは毛頭ない。そもそも私は“人造人間化”に荷担しているのだから。
それでもネズミに人間の耳を背負わせるのはぞっとしないが。
西暦2016年のドイツ。
相次ぐ原発事故や環境汚染の影響などから激増した不妊治療のため、飛躍的な進歩をとげた人工生殖技術を駆使し、液体窒素で冷凍保存された精子と卵子を体外受精させる方法が一般化している。
さらに第三世界では代理母業が一大産業を形作り、需要に供給が追いつかないありさま。
子供のいない夫婦への科学の福音。
十七歳の高校生カールは小さいときから自分が養子であることをきかされていたが、ジャーナリストのフランツィスカの助けも借りて実の両親を捜しはじめる。しかし、調べていくうち謎は謎を呼び、ついにさがしあてたコンピューターの極秘資料には、彼の恐るべき出生の秘密がしるされていた。
(本書裏表紙から)
一九九九年に生まれていかなる事柄においても選択肢は多い方がよいと考える私は「代理母」を否定するものではない。
だが「人工子宮」についてはどう考えるのか。私は明確な答えを持ち合わせていない。

本書は“人工子宮が代理母”だった冷血少年カールを描いたサイエンスフィクションである。本書(和訳)が発刊されたのは1992年、私が本書を手にしたのも同年。
あれから14年の歳月が流れた。


[ 一九九九年に生まれて ]
シャルロッテ・ケルナー著/酒寄進一訳/福武書店


【追記】教徒に向かってアルカイックスマイルを振りまくのが唯一の「公務」である、さる高貴なご一家は、遺伝子操作、体外受精、人工子宮を導入すれば「お世継ぎ問題」が解決するだろう。可哀想にも父方に似た容姿ばかりなのだから、いっそ「クローン」をつくってもよい。(06.08.04)
清志郎闘病生活アゲ
清志郎闘病生活アゲYouTubeで以前よりも清志郎関係の映像が増えたような気がするのは闘病生活に入ったせいなのか。

「ぼく目は猫の目」がアゲられていることにちょいとうれしく、“素晴らしすぎて発売できません”と云われちゃったあの2曲(タイマーズ!)に感動。どっかの飼い犬が歌っていたLove Me Tenderとは比べ物にならん。リサ・マリーは怒ってたぞ。

余談。
同じ愚か者でも小泉とブッシュの違うところは、小泉にはコンディのような調教師がいないことだろう。小泉信子?

http://www.youtube.com/watch?v=gHJ0YH2y24E(ぼく~)
http://www.youtube.com/watch?v=5F5qrijnpPg(Love~)

つーことで超多忙は変わらず、今日はこんな記事で。
Screw you!
YouTubeにもあった。タイマーズの伝説のアレ。
http://www.youtube.com/watch?v=l1qJ8_mbG34

Screw you!歌詞が英語訳されて画面に表示されているのだけれど、アソコんとこは「Screw you!」って訳されてるのね。
んで、英語は分からないのでエキサイト翻訳してみたら「あなたをやってください!」と。
なるほどねえ、そんなもんですか。

「宗教ロック」と「LONG TIME AGO」も張りつけ。
http://www.youtube.com/watch?v=cf_YJ14OkcI
http://www.youtube.com/watch?v=71Fmm4B1gts
愛国者は信用できるか
愛国者は信用できるか「国を愛する」とは極めて形而上的であり愛すべき対象が為政者によっていかようにも恣意的な定義を許す概念的観念論である、ということを私は本ブログで以前にも書いた。又吉イエス総理大臣が誕生したらば「又吉さまぁ」と萌えることこそが愛国であって、それに反対する者は「反日」であり「非国民」であり「売国奴」である。

「愛国」の普遍的な定義はおそらく存在しえないことは上記した通りだが、自民党政権のときも非自民党政権のときも変わらず税金を納めていた(イヤな表現)多数の国民は愛国者であると云はしまいか。税金がいかように使われようとも文句をほとんど云わず、政権・政策に左右されず、常に税金を払い国を支えてきたのだ。
少なくとも、所得税すら払わぬ者よりずっと「愛国者」である。

さて本書。
鈴木は「僕ですら戸惑うほどだ」と云う。なぜか。
それは「最近、急に世の中が変わった。世相というか国民の意識が変わってきた。ソ連が崩壊し、東欧もなくなった。日本だって左翼がいなくなった。その途端、にわか右翼、オタク右翼、新保守がドッと増えた。ネット右翼も大増殖した」(8頁)からなのだと。
最近流行の愛国心とは、小作人根性丸出しの「相対的」愛国心である。おれはアイツより愛国心を持ってるぜェ、といった程度のものである。
誰がなんと云おうとおれ様は愛国心の固まりなのだ! おれ様こそ真の愛国者なのだ! わははザマーミロ! という「絶対的」愛国心ではない。薄っぺらなのである。(そもそも「絶対的愛国心」など存在しない。あるとすればそれは、常に権力者におもねる「日和見主義」であろう。)

鈴木はこうも云う。「国というのは、いろいろのもので成り立っている。自分の家族、学校、会社、町、市、県。そして国家になる。自分の周りのそれらを一つずつ愛していって、その〈総体〉としての国を愛するのなら分かる。しかし、『愛国者』を自任する人は、家族や町、市、県からは孤立し、嫌われ、そのくせ、『俺は愛国者だ』と言っている人が多い。三島(由紀夫)の言うように、この共同体をピョンと飛び出して、国と自分が対等になって、『愛している』と言っている。これは思い上がりだし、錯覚だ」(23頁)と。


[ 愛国者は信用できるか ]
鈴木邦男著/講談社現代新書

お待たせ。『愛国者は信用できるか』が出ました!(今週の主張5月22日)
沈黙
よく云えば改革の総仕上げ、マスコミ風なら求心力の回復。しかしながら実際には退陣間近の駆け込み審議であり、小泉人気を後ろ盾にしたエセ愛国議員らによる悪法案が「教育基本法改正」「共謀罪」である。
民主党は自民党の亜流でしかなく、社民共産両党は少数ゆえに反対のアリバイづくり程度の質議。そこに大きな期待が持てぬ以上、大きな反対世論が唯一の‥‥。

死に体と化している大手マスコミが日常垂れ流す単眼的報道を額面通りに受け取りことがいかに危険であるか。
ジャーナリスト山岡俊介さん「テレ朝が当局圧力で『共謀罪』関連番組放映を延期!?」に大手マスコミのていたらくの一端が伺えるが、古くはニュースコープ田英夫キャスターによる「ハノイ──田英夫の証言」後の政治家から加えられた圧力に屈したときにマスコミは死んだといえる。小泉による悪政をマトモに批判せぬマスコミの現状を見られよ。

沈黙このところ、活字中毒の禁断症状があらわれているにもかかわらず本屋に並ぶ新刊はどれも食指が動かない。よって自分の本棚をひっくり返すことになるのだが、パッと目に飛び込んできたのが本書である。読んだのは20歳の頃だったと思うが、改めて読み直してみた。
本書とエセ愛国議員らがゴリ押しする悪法案に直接の関連性はみられないだろう。しかし石原朕太郎によって東京では教育者への踏み絵が行われている今現在の状況は、希望の光すら見えないこの小説の行き着く先を重ね合わさずにはいられなくなる。キチジローや井上筑後守は明日の私なのではないか、とすら思う。

私に云わせればいわゆるネットウヨクなど物の数ではない。かつて時代の雰囲気だけで角材を振り回し安保反対を訴えていた者と同じで間もなく消滅するだろう。本当に厄介なのはコイズミ的を一切疑わぬ“犯罪的無知の善良なる市民”である。
未だ小泉改革に賛成している犯罪的無知の善良なる市民は、負け組の側に置き去りにされることも気づかぬままハメルーンの笛吹きによって亡国へと導かれてゆく。それもひどく無邪気な足取りで。


[ 沈黙 ]
遠藤周作 著/新潮文庫
食卓の向こう側7 ~生ごみは問う~
小食である。
運動部でさんざ汗を流していた育ち盛りの中学生のときですら、ご飯は茶碗一杯しか食べなかった。母親は「○○さん家の△△君はどんぶりで3杯も食べるってよ」などど心配していたものである。
それでも若干貧血気味(血の気は多いのになぜ?)であった以外特別な不自由はなく、今では身長177センチメートルまで成長している。燃費がよいのだろう。流行りの混血自動車などよりよっぽど燃費がよい身体である。

食卓の向こう側7 ~生ごみは問う~そもそも「お腹いっぱい」という感覚がイヤなのだ。
小食であっても腹は空く。腹がうんと空いたときなど思わず余計に食べてしまう。そしで必ず後悔する。あぁ、なんでこんなに食べちゃったのかなぁと。自己嫌悪である。出来るだけ残したくないという貧乏性であるが故、喉元まで押し込むことだってある。さらに自己嫌悪である。
私の消化機能はひどくマイペースなので、翌日の昼頃まで「お腹いっぱい」の状態がつづくこともある。前日食べた焼肉が翌日まで維持されるのだ。いつまでも焼肉のいい匂いが胃から湧き上がってくる。周りは迷惑そうな顔をするが、本人はいたって幸せである。

どんぶり飯をかっ込む男に惚れる女性がいる。どんぶり飯をかっ込む姿は男らしさをアピールする手段のひとつのようだ。このような男は私にとっては天敵である。ましてやどんぶり飯かっ込み男に惚れた女性が美人だったりしたら大変である。私はどんぶり飯かっ込み男に殺意を抱かずにはいられなくなるのだ。
うな丼とうな重があれば、迷わずうな重を注文する私である。育ちが良いのだ。うな丼をかっ込むなど下品極まりないではないか。小笠原流とまでは云わないが、食事の仕方は重要である。好きな相手と囲む食卓であれば尚のこと。肌を合わせるのと同じくらい重要なのだ。
私の研究によれば食事の仕方が綺麗な女性はアッチの仕方も綺麗である。肘をついて茶碗を持つだのクチャクチャ音を立てて食うだのといった女性は大抵がマグロである。この研究成果は近い内に英科学誌ネイチャーで発表したい。

公共広告機構が「輸入してまで/食べ残す。/不思議な国/ニッポン。」と宣伝していたのは96年。台所から出されるゴミの約40%が食べ残しと云われている。
それから10年。この国の食糧時給率は約40%、そして食べ残しも約40%。何も変わっていないのだ。単純に考えれば国内で生産した食糧をそのまま捨てていることになる。
日本人は一体なにを食べているのだろう。


西日本新聞 / ニュース / 食卓の向こう側
西日本新聞 / ニュース / 食卓の向こう側: 食卓の向こう側・第7部 生ごみは問う<1>プロローグ 4千万人分の食 無駄に
吉野家もすき家も(本ブログ05年12月28日)
輸入してまで食べ残す(本ブログ05年12月22日)

[ 食卓の向こう側7 ~生ごみは問う~ ]
西日本新聞社「食 くらし」取材班/西日本新聞社
不道徳教育講座
三島に傾倒したことなどない私の本棚に本書があるのは「不道徳」の一語に惹かれたからだろうが、不思議だ。三島的マッチョなどせせら笑う私である。(しかしエログロナンセンスが三度の飯より好きな私であれば、市ヶ谷駐屯地でのハラキリには大いに興味がそそられる。)
不道徳教育講座本書の発行が平成四年(四十八版発行)となっているから、購入したのはその頃だろう。その頃の私はといえば、おねいちゃんのお尻を追い掛けてばかりいたなあ。あれからちっとも成長がないけれど。ある意味、未だに断乳できない私です。

♪ボインは~ お父ちゃんのモンと違うんやでぇ~
 赤ちゃんが吸うために あるんやでえ
 おっきいのんが ボインならぁ
 ちっさいのんは コインやでぇ~
 もっとちっさいのんは ナインやでぇ~

一節唸ったところで、さて本書である。
本書で目から鱗を落とすようなことがあってはならない。とくに、視野が狭いうえに人経験の貧弱な男が読むには危険な書である。童貞くん(含む素人童貞)などは「そうか、女は殴ればいいのか」などと刷り込まれてしまうだろう(本書『女には暴力を用いるべし』)。これは“不道徳”講座なのだ。
田島陽子風の女性崇拝主義者であれば尚のこと。怒髪天を衝くこと間違いない。『週刊金曜日』を真似れば「読み方注意!」である。

それでも現代にも通じる「不道徳」な項目もあるのは面白い。本書角川文庫初版が67年であることから考えれば、文明はいざ知らず日本人の精神構造はさしたる進化はないのだなあと感じなくもなくもない。
それからたった40年なのだから当たり前か。


[ 不道徳教育講座 ]
三島由紀夫 著/角川文庫
堕落論
人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。(本書から)
日本は敗戦によって、確かに堕(お)ちた。だがしかし、その直後には新たな「神=救世主」の出現──それへの盲目的な従属によって「堕ちる道を堕ちきる」ことが出来なかった(あるいは堕ちることを意図的に回避した)のではないだろうか。
日の丸を見られよ、星条旗の“透かし”が見え隠れしている。

人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。(同)
堕落論この国が本当に堕ちるのは、まだこれからなのやも知れぬ。米軍基地、外交、牛肉輸入、天下り、偽装、新自由主義経済等々の山積みされた問題。そして1000兆円にものぼる膨大な赤字。

安吾が云うところの「堕ちる道」への先導者こそが小泉純一郎であるのは間違いない。そして「近道」までの道程をなお一層早めようとする半数の国民。今度こそ本当に堕ちたとき、また新たな「神=救世主」の出現によって再び救われるのだろうか。
安吾は「堕落論」の最後をこう締めくくっている。曰く「政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である」と。


[ 堕落論 ]
坂口安吾 著/集英社文庫
スタンドアップ
ぼんやり観てしまうと“職場のセクハラに立ち向かった女性の記録”とでも云っただけの印象を受けてしまうが、本作の主題は別のところにもあると思う。主演のシャーリーズ・セロンはインタビューで「男性社会で働く女性たちが直面する苦悶と同時に、男と女が生き残りをかけて戦っている切実な生存競争でもある」(パンフレットから)と答えている。
私が本作を観てもっとも感じたのは一社員(個人)対会社という初めから勝負は見えている図式における周辺者のありように対して。これはセクハラだけに限ったことではない。『週刊金曜日』590号の鎌田慧ルポもこうした問題のひとつだろう。声を上げるのはそうむづかしいことではない。だがそれを持続させるのは非常にむづかしい。そして周辺者の反応。

スタンドアップひとを使うのはもちろんひとに使われるのも上手でない私は、会社に雇われていた頃は上役とよくぶつかった(それは正義などではなく「おれは気に入らない」といった個人的感情によるものに過ぎなかったが)。
周りの反応が面白い。私が上役と衝突している最中にはみんな知らんぷりを決め込む。しかし衝突後には「よくぞ云ってくれた」「本当はみんなそう思ってた」などと云って私を応援(?)してくる。

──はあ? なんでそのとき一緒に声を上げないの?

佐高信さん云うところの「社畜」となれなかった私は、ひとりの上役から会社そのものを相手にせざるを得なくなり、結局クビになるのだった。
一社員(個人)対会社という問題を少し乱暴に膨らませれば「一市民対国家」ということにだってなる。イラクで誘拐された者への「自己責任」や「違法」とされた反戦ビラ撒きはその一例だろうと思う。「傍観者」は結果的に会社や国家の「無責任」に加担している。

本作を観る上での心構えと云えそうな「自分の言葉を持つということ」と題されたノンフィクションライター最相葉月さんの一文を引いておこう(本作パンフレットから)。
 この映画はだから、セクシャル・ハラスメントや家庭内暴力の映画でもなければ、シングル・マザーの自立や男女平等を謳うものでもない。もちろんそういう社会派的な型を読み取ることも可能だけれど、そんなふうにくくるだけではもったいない。それより、人としてあたり前に生きるために、今よりも少しだけ見晴しをよくするために、階段を一段だけ上がってみること。心を決めた瞬間、人が、人の心にしっかりと届く言葉を持てるということ。どんな不意打ちをくらっても、跳ね返すことのできるだけの言葉を持てるということ。その素晴らしさ。それがこの映画を見て、一番私の胸に迫ってきたことだ。
[ スタンドアップ ](2005年/米国/R-15指定)
原題:North Country
監督:ニキ・カーロ
音楽:グスターボ・サンタオラヤ
出演:シャーリーズ・セロン/フランシス・マクドーマンド/ウディ・ハレルソン/ショーン・ビーン/他
物語★★☆☆☆ 映像★☆☆☆☆ 娯楽★☆☆☆☆ 配役★★★☆☆ 音楽★★☆☆☆
お江戸風流さんぽ道
「小股の切れ上がったいい女」なんて聞くとゾクっときます。
でも「小股」ってどこ? 「切れ上がった」ってなに? とは積年の疑問。かといって調べることもなく。
ちょっと、松田聖子ちゃんの脚のような、O脚形。真っすぐに立ったとき、左右のくるぶしのところはちゃんとつくのに、膝はつかないという。これで、真横から見るとかすかにS字形を描いている。こういう脚の人がその上に着物をまとった場合、とても色っぽいんですね。(本書183頁)
お江戸風流さんぽ道ケイちゃんよりもミーちゃんが好き。自分のお小遣いでレコードを買った初めてのアイドルが河合奈保子。
どうやら小学生当時からむっちりした太ももが好みだったようで、小股の切れ上がったいい女を好きになることは未来永劫ないのだろうなあと思うと少しばかり残念な気持ちになるのですけれども。小股の切れ上がったいい女ってなんだろな、と不思議に思っていたままの方が楽しかったのかも知れません。バックシャン(死語)の顔を駆け足ししてまで前に回り込んで見たら‥‥のようながっかり。だーわざわざ顔を見なきゃよかった! みたいな感じです。

それにしても、どうして私は江戸に生まれ落ちなかったのだろうと思わされるほどの作品や「案内」がこれからは手に出来なくなるのが残念でなりません。
改めて合掌。


[ お江戸風流さんぽ道 ]
杉浦日向子 著/小学館文庫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。